redcircle’s blog

アニメ等の感想を書きます

【中国映画】あの子を探して 体制批判すら許される人情物語とは

『あの子を探して』という1999年のチャン・イーモウ監督の映画を見ました。BSをつけたらやっていたのでたまには中国映画もいいなぁと思って見ました。個人的に監督と言えば『HERO』なんですが、これは中国映画らしい人情物語でした。

あの子を探して [DVD]

 

ストーリー

舞台は中国の農村。

水泉小学校のカオ先生が母親の看病のため、一ヶ月間、小学校を離れることになった。放っておけば、多くの生徒が家庭の事情で学校をやめてしまう。代理として村長に連れてこられたのは、13歳の少女、ウェイ・ミンジ。
中学校も出ていないミンジに、面接したカオ先生は心許なさを感じるが、子供たちに黒板を書き写させるだけの簡単なことならできるだろうと代理を任せる。報酬は50元。子供を一人も脱落させなければさらに10元。
ミンジは、生徒に自習させて教室の外で座っているだけの「授業」を始めるが、うまくいくはずもなく、次々と騒ぎが起こる。特に生徒のホエクーは、隙を見て抜け出そうとしたり、女の子の日記を盗んで騒いだりといつもミンジを困らせていた。

そんなある日、そのホエクーが突然学校にこなくなった。病気になった親の代わりに、町に出稼ぎに行ったという。脱落者を出すと報酬が減ってしまうと考えたミンジは、何とか連れ戻そうと策を巡らせるが、町を出るバス代がない。皆で話し合い、レンガを運んで金を稼ぐことになり、生徒たちも一生懸命働いてようやくミンジを送り出す。大きな町へ着くとホエクーは行方知れずだと聞く。彼女はなけなしの金をはたいて紙と筆と墨汁を買い、尋ね人のチラシを貼り出すがらちがあかない。町のテレビ局に行き、涙ながらに訴える。苦難の末、ミンジはホエクーと再会を果たす。

あの子を探して - Wikipedia

 この映画のすごいところは農村部の貧困という中国の暗部を描いておきながら検閲に引っかからなかったところだと思います。現代中国には検閲という制度があって政府が任意に創作物を公開停止にできます。日本の漫画やアニメが中国の検閲を受けたりしてよく話題になったりしていますね。監督はこれ以前に『活きる』という映画を政治的理由により放送禁止にされています。『あの子を探して』は中国政府の顔色を窺って作ったというような記述がWikipediaにあるので、規制と表現のぎりぎりのラインで作られたものだと言っていいでしょう。

ではどうしてこの農民の極貧が中国で公開され成功を収められたかというと、僕はドキュメンタリー的手法によるリアリズムと近代化イデオロギーへの配慮があったからだと思います。

リアリズム

貧困の描写が生々しいです。チョークは一日に一本しか使うことが許されていません。子供は大人に賄賂を要求します。経済難から出稼ぎに出ざるを得ない子供も描かれます。学校教育の不完全さが子供を襲います。

しかしメインの役者は皆素人です。演技力の欠片もありません。そこが農村の素朴さを強調し、映画的ではなく、一方子供達の自然な姿を描き出し、フィクション的な貧困と現実の貧困の境界を薄くしています。これが現実の貧困を殊更に抽象化し批判するようなものだったとしたら、政治的な圧力を受けていた気がします。

結局何が言いたいかというと、素人をドキュメンタリー風に撮影することで現実から乖離させ、生々しい貧困によって『おしん』のような同情を生んでいたのが批判のしにくさに繋がっているのではないかということです。

近代化イデオロギーへの配慮

この貧困と一連のトラブルが「テレビの人気番組で貧困特集をしたら、探していた子供とも再会できて、寄付金が集まって、テレビ番組の車で村に帰ることもできて、校舎も新築できて、文房具もたくさん貰えたよ。子供達には明るい未来が待ってるよ」という結末になっています。

マスメディアという体制の力を確認するようなエンディングですね。統一的イデオロギーへの配慮が感じられます。寄付をしてくれたのも結局は街に住んでいる富める人達です。貧困の実態が放送され多額の寄付が集まるという、同情的な中国人像も見え隠れします。喩えるならば、泥沼の戦いを描いたミリタリー映画で、最後に爆撃機が援軍として敵を一掃してくれて勝利…のようなものでしょう。

農村と都市部の対比が強烈なので、みんな都市に行けばいいじゃん(笑)みたいな印象を持ってしまいます。農村では皆現金主義だったのに対して、都市部では食べ物を恵んで貰えたり、大人がアドバイスしてくれたり、都市に「人情」があるという点も特筆すべきです。

かなり感動できる

…あまり穿った見方をするものではないですね。政治性は横に置いておいて、13歳の女の子が先生として働かなければならなくなって、どうすればいいか教えてくれる大人がいないのに頑張るというおしん的な展開が心を打ちました。5回くらいマジ泣きしました。

やっぱり、最初は10元のためにミンジがホエクー探しをしていたのに、だんだん先生としての責任感だったり姉のような親愛の情が生まれていくところがいいです。その過程を上手く描けていたと思います。

 

中国人留学生と農村部の貧困について話したのを思い出しました。(きみがイメージするような貧困は)ほんの一部ですよって言っていました。この映画もやはり20年くらい前のものなので、今はどうかわかりません。真実は行って自分の目で見るしかないんだろうなと思います。

【雑記】田舎の話とか プリンター買って泣いた話とか

田舎

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僕は田舎の中にある辛うじて市街地と呼べる地区で育ったんですが、中途半端な田舎ってなんも面白くないなぁと思うわけです。多分、中途半端な都会も同様に面白くないんじゃないかなぁって想像しています。だから東京への憧れもわかるし、コンビニが9時で閉まるような田舎に何かドラマがありそうな気持ちもわかります。

そんな僕ですが、中途半端な日本の田舎ってあまりにも画一化されすぎていてつまらないと思ってしまいます。中華圏のような雑多さもなく、南米のように教会を見て植民地時代に思いを馳せるようなことができるわけでもないです。電車に乗っても車窓は常に小山に遮られ、視界が開けたとしても田んぼと散村が永遠に続いています。

哲学なき西洋化というものはかくも無残な結果しか残さないんだなぁと出かける度に思います。だから地方創生の一環として観光をアピールしようという議論にはあまり賛成できません。ツーリズムというものは非日常や冒険を追い求めるものだと思うので、何の感慨も湧かない寂寞とした衰退地域に人を招くということが恥ずかしいのです。もちろんそれくらいしか道がないのはわかっています。でも、僕の故郷が「なにもない」と評されるのを見る度に、ほっといてくれとしか思わないのです。

御国自慢もたいしたものもがないです。結果として人々のアイデンティティが欠落し、哲学も失われ、国や民族への帰属に価値を求めるのかなぁと思いました。

前の自己紹介文

ネット上の人格なんてものは観測できる文字となったものが全てだと思う
本人はネット上に公開された言葉そのもの
だから自称するスペックなんてものは意味をなさない
男か女か 何歳か 童貞か なんてのは
ネット上に現れる部分以上のものを語りえないし本質ではない

そして立場と信用性を明らかにする必要があるツイートをすることはないだろう
だからそれらを知ることは無意味だとここに告げる

 

思ってることを書いたつもりなんですがさすがに何も伝わらないので今のに変えました。秘密主義よくない。

このすば

僕は異世界転生系好きなんですが、このすばはなんか違うんですよね。

別につまらないとかそういう話ではなくて、一期一話は面白かったんですよ。

二話以降は完全なギャグ系です。

転生した瞬間目的が達成されてしまって、カズマは満たされちゃったわけです。

だからあんまりはまれないのかなぁと思いました。

こういうほのぼのとした日常系を楽しめる思考回路が欲しいなぁと思った次第であります。 

プリンターを買って泣いた話

前のプリンターが壊れたので新しいCanonのプリンターを買いました。配達員さんから箱を受け取って、テーブルの上に置いたわけです。そこからぼーっとそのプリンターの箱を眺めていました。

なにかをするわけではないです。

なにかを待っていたんだと思います。

そして気づいたのが、その箱を開けてみたいという気持ちが湧いてくるのを待っていたんです。子供の頃からこういう機械や機能への興味というものは強かったように思います。新しい物を買ったら、とりあえず開けてみたり起動したりして全ての機能を確かめないことには腹の虫が収まらなかったはずです。しかしこの時の僕は、即時使うわけでもないプリンターを開けようという気持ちになれませんでした。

それがたまらなく悲しくなったんです。

僕は好奇心まで失ってしまったんじゃないかって思うと涙が止まりませんでした。

好奇心が成長と共に弱くなるなんてまあ当たり前のことだと思います。人間は記憶と共に順応していく生き物だからです。けど何かを忘れるのは、別の新しいことに注意を向けるためでもあります。

僕はその新しいことが見当たりませんでした。新しい興味でも、新しい友達でも、新しい家族でもよかったんでしょう。好奇心だけが欠落して、その穴を埋められるものは何も手に入れていなかったのです。プリンターを見て泣いたのは初めてでした。

そして、この気持ちさえもいつか薄れていくことでしょう。その時また同じような精神状態になると思うと憂鬱でなりません。

ねらー体

某匿名掲示板にずっといたんですが、そこで使われている文体がTwitterに適さないものだと思って、自戒のつもりでちょっと書きます。僕が使ってしまっている文体はこんな感じです。

・~だろ

・~だろカス

・~だな

・クソワロタ

・~じゃん

・~しろや

・やべえな

・~すぎる(~すぎて~になった構文ではない)

・マジで

・くっそイラつく

イッタランドに順応すべきだ…

【幼女戦記】存在X=喋る転生トラック=作者そのものだ!!というメタ視点

幼女戦記 存在X=作者論

 

フレームの話なのでネタバレ要素はほぼないです。

 

追記(というか言い訳)

幼女戦記小説家になろう掲載時の作者のペンネームが「存在X」だというご指摘を即受けたわけでありますが、まあわかっていた人にはなんの面白みもない記事でしょう…

存在Xのどのへんが作者そのものだというかという視点で読んでください。

 

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© カルロ・ゼンKADOKAWA刊/幼女戦記製作委員会

幼女戦記』はWeb小説原作のアニメです。

これについてメタ視点で感想を書きます。

見ていない人のためにあらすじはざっくりと…異世界転生して戦場で無双する話です。主人公は最前線の戦場でなんとかやっていきます。

 

この物語で僕が気になったのが主人公の転生も受難も「存在X」という神的存在の手によって引き起こされていることです。存在Xは信仰心のない主人公を改心せしめるために世界に介入してきますが、そのふるまいも動機も到底神とは思えない、癇癪を起こした幼稚園児のようなものなんです。その発狂ぶりは冷静沈着で合理主義的な主人公と対極にあるように描かれていると感じました。

 

存在Xは作者のメタファー 

さて、その存在Xですが、神ではなく「作者」のメタファーじゃないかって僕は思いました。これは作者の意図のあるなしに関わらず、そう読み取れるのではないかという話です。3つそう思う理由を挙げておきます。

主人公の敵=作者

1つ目の理由ですが、創作の構造的に、「主人公に困難を与えストーリーを作る存在=作者」という性質があるからです。まあどんなものにも言えてしまうんですが、戦記ものは主人公が苦戦しなければ話が終わってしまいますからね。「主人公補正」で勝つ展開は作者の贔屓があるからです。となれば、困難に直面する「逆主人公補正」も作者の一存で決まっているのです。

あらゆる敵キャラがそういう作者的要素を持っているわけではないです。ただ幼女戦記の存在Xについては、明らかにエゴイズムの塊であり、動機も(信仰心の薄い現代人にとっては)共感不能に設定されており、舞台装置としての役割しか与えられていないので作者そのものと言ってもいいと思いました。

存在X=主人公の裏返し

2つめの理由は、主人公の対極に存在Xが設置されている点です。アマチュア小説においては、「主人公が作者の願望の表れである」という批判があるんですが、僕も基本的にそれには賛成です。『幼女戦記』は主人公が都合良く最強の力を手に入れて勝ちまくるので、これは否めないでしょう。

存在Xが主人公の対極にあるのはその思想信条、主義などからも明確です。つまり、両者はコインの表と裏であり、ご都合主義的な要素を作中で二分しているのです。

存在X=転生トラック

3つめの理由がWeb小説的な予定調和が存在Xだからです。ふつう、ご都合主義展開だったらそれを隠すためにいろいろな理由付けやシチュエーションを考えると思うんですよ。しかしWeb系の異世界転生は転生の理由がトラックだったりするわけです。所謂「転生トラック」のことで、トラックに撥ねられたー(走馬燈)みたいな本筋とは関係のないきっかけで転生するわけです。あらゆる転生パターンが模索されてきたWeb小説では、転生した理由やきっかけみたいなものよりも転生先の世界がどんなか、そこでどうやって生きていくかが重視されるわけです。つまり、トラックこそ作者の一存そのものなんです。だからこそ僕は「トラックこそ作者」だと言いたいですね!

存在Xは意思を持ったトラックなんです。

上でも書きましたが存在Xは舞台装置であり、作者の一存で介入してくる作者そのものなんです。

SS小説らしさ

作者として存在Xが物語に介入してくるという考察をしていてこの有名なSSの締めくくりを思い出しました。

 

23 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2012/11/11(日) 20:47:46.11 ID:2TLOe39oO
 
くぅ~疲れましたw これにて完結です!
実は、ネタレスしたら代行の話を持ちかけられたのが始まりでした
本当は話のネタなかったのですが←
ご厚意を無駄にするわけには行かないので流行りのネタで挑んでみた所存ですw
以下、まどか達のみんなへのメッセジをどぞ

まどか「みんな、見てくれてありがとう
ちょっと腹黒なところも見えちゃったけど・・・気にしないでね!」

さやか「いやーありがと!
私のかわいさは二十分に伝わったかな?」

マミ「見てくれたのは嬉しいけどちょっと恥ずかしいわね・・・」

京子「見てくれありがとな!
正直、作中で言った私の気持ちは本当だよ!」

ほむら「・・・ありがと」ファサ

では、

まどか、さやか、マミ、京子、ほむら、俺「皆さんありがとうございました!」


まどか、さやか、マミ、京子、ほむら「って、なんで俺くんが!?
改めまして、ありがとうございました!」

本当の本当に終わり

出典:

くぅ~疲れましたw (くぅつかれました)とは【ピクシブ百科事典】

 

これはSSの終わりに俺くんが出てきてキャラクターと会話するっていう珍妙さが受けて広まっているわけですが、幼女戦記の存在XもこういうSS小説らしいSS小説の影響を受けているのではないかと思います。

メタ視点で評するならこのアニメは作者が直接介入して物語を強制的に動かしていくという構造ですが、「存在X」というトリックスターで全体を正当化しています。僕は上手いなぁと思うわけであります。つまり、ご都合主義でいいじゃない!好きなこと書いてるんだし!っていうフレームが成立しているんです。だから「戦記」という堅苦しい題名がついても、僕は細かいことは気にせずフラットにこのアニメを楽しめていますね。