ネットの虚無

虚無に耽溺した日常を送り、いつしかその虚無(insubstantiality, nihility)に取り込まれ、侵され、蝕まれ、苛まれるようになった。僕が日々呟く「虚無」という一言には迫り来る虚無への緩やかな抵抗が示されているといえる。しかしこの危機感を感じなくなった瞬間、人間としての僕は終わるだろう。だからいまのうちに――僕が僕であるうちに、虚無への処方箋を綴っておく必要がありそうだ。

愛。素敵な言葉だと思う。愛の対義語が無関心なら、虚無の対義語は愛だろう。いまだかつて愛を説かない宗教があっただろうか。愛を求めることを止めてしまったらゲームオーバー、YOU DIED。そんな世界に生きる僕は、愛を軽視していた気がする。そして生理的欲求にはじまり、自己実現の欲求に至るまで、何層にもわたる欲求を正しく満たすことも重要である。悲しいかな、その道のりは険しいことこの上ない。でも僕がここに書きたいのはそういう事ではない。杓子定規なカウンセラーになりたいわけじゃない。

僕は現状を正しく認識したい。僕が真に虚無感を感じる状況はどうだろう。主にインターネットにアクセスする時だ。そこで考えた、インターネット上のコミュニケーションにおける虚無感はどこから来るのだろう?

それはおそらく(間違いなく)、他者から無視されていると感じるときだ。SNSのタイムラインという、二次元的で、投稿が時系列で流れていくシステムならではの虚無がそこにはあった。僕たちは時間は共有すれど、空間を共有しているわけではなかった。だから人気者でないかぎり、みんなから思ったようなレスポンスが得られないという状況が頻発し、意識的にも無意識下にも無視・無関心を感じてしまう。虚無はSNSという構造にあったのだ。つづく